日本茶の歴史

はじめに

世界に分布している茶樹は永年性の常緑樹で、比較的温暖な年平均気温13℃以上、雨量が年平均1400mm程度、弱酸性土壌の亜熱帯地方を中心に広がっている。
植物学的にはツバキ科カメリア属であり、その原産地は中国とされている。
大別するとアッサム種(大葉種)と中国種(小葉種)の二つに別れ日本茶はそのなかの中国小葉種の種類に属している。

日本茶の起源

日本茶の起源として、ヤマチャと呼ばれる種類のお茶が本来自生していたのか、人の手によって伝えられたものなのかは定かではないが、日本各地に伝えられている製茶、喫茶法の多様性から見て、日本茶とその喫茶には中国の唐・宋時代に伝えられた方法と、各地方茶を利用した方法の二つがあったと推測される。

古代

歴史的に日本茶の喫茶の起源と思われる記録としては、平安初期の「日本後記」の記述で、弘仁6年(815)「嵯峨天皇に大僧都永忠(だいそうずえいちゅう)が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」とあり、これがわが国喫茶記録の第一号である。
その他、平安時代の書物や「延喜式」等にはお茶に関すると思われるさまざまな記載が認められる。
また「本朝文粋」にある慶滋保胤(よししげやすたね)の記述には「参州薬王寺晩秋に過ぎて感あり薬王寺は昔、行基菩薩の建立した所で茶園あり、薬圃あり」とあり、茶園の存在を示す記録とされている。
また六波羅蜜寺の空也上人は、村上天皇の命で京の町の疫病を鎮めるため、洛中洛外の人々に薬用として梅干を添えたお茶を施したとされ、その功徳にあやかってそれ以後村上天皇は、毎年正月元旦に茶を服されるようになった。
これを「王服茶」「皇服茶」と呼び、後には一般庶民もこれに習い正月元旦に「大福茶」あるいは「大服茶」としてお茶を飲むようになり、江戸時代の「本朝食鑑」の記述からもその習俗が定着したことが読み取れる。

中世

1191年に臨済宗の開祖栄西禅師が宋から帰朝、京都建仁寺を開山し、将軍源実朝に本格的な茶の効用から蒸し製法の碾茶などについて著したわが国最初の茶書といわれる「喫茶養生記」(1214)を献上した。
栄西が帰国した際に持ち帰った茶種を九州背振山や洛北高山寺の明恵上人に与えて茶を栽培させた話は有名である。
鎌倉時代の末期には茶寄合いなどが盛んになったが、足利尊氏は建武式目において禁止するほどの状況であった。
南北朝時代の虎関師錬が著した「異制庭訓往来」には当時の名茶産地として京都各地、大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵をあげている。
これらの各産地は寺院、寺領のの茶園を主としたもので、近畿から関東にかけてさらに茶栽培の北限と言われる茨城の奥久慈の茶も14世紀に始まったといわれる。

近世

近世に入ると全国各地の検地帳、茶貢租などに関する古文書が現存し、また農書などに茶の技術についての記述を見ることが出来る。
九州の釜炒り茶には嬉野茶と青柳茶があるが、佐賀、長崎の嬉野茶は中国から窯業を伝えた人々あるいは紅令民という中国人が、熊本、宮崎の青柳茶は中国人の陶芸家たちによって伝えられたとされている。
また黄檗宗を伝えた隠元は、宇治の万福寺で唐茶の鍋煎茶を作ったという記録がある。
さらに山口では漢陽寺の明機禅師が平釜を水平に据えて青柳茶の製法に似た釜炒り茶を伝えた記録が、駿河では徳川家や大名に献上茶を送った文書が残されている。
そのほかにもこの時代には、日本最古の農書といわれる「清良記」(1628)には、茶栽培の記録が見られ、また宮崎安貞の「農業全書」(1697)は当時としては茶の栽培、製造に最も詳しい書であった。
近世では流通機構が発達し、江戸では茶株仲間といわれる消費地問屋が、地方都市には茶仲間といわれる産地問屋、産地荷主が生まれ、許可を得て茶の取引を行っていた。このような流通の拠点は茶町といわれていた。
この時代には茶は庶民の食文化に組み込まれる一方、15世紀後半には村田珠光、武野紹鴎、千利休らによって新しい茶礼の法式がつくられ「侘茶」として大成し、その後の「茶道」の完成へと至るのである。
茶の製法としては各地にさまざまな製法があったが、蒸製の碾茶を作っていた京都では、宇治田原郷の永谷三之丞(宗七郎、後の宗円)が1738年に宇治の煎茶の優品をつくり伸煎茶の祖といわれ、 同じく宇治には上坂清一や、玉露の製法を発明(1835)した山本嘉兵衛などがでて「宇治製法」の優れた技術は日本各地に広まっていった。
ちなみに明治10年の全国農産表によると、この年の全国茶生産量は7,678トンであった。

近代

近代になって、オランダの東インド会社が1610年に長崎の平戸からヨーロッパへ日本茶を輸出したのが、わが国最初の茶の輸出である。
アメリカの黒船来航後、1858年にアメリカ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結び、1859年から生糸とならんで茶も重要な輸出品として181トンが輸出された。また同年には長崎の大浦慶という貿易商によって6トンの茶がイギリスに輸出された。
茶の輸出は国益増進という政府の援助もあってアメリカを主体に増加し、需要の多かった宇治製法を取り入れた蒸し茶製法が各地方にも広まった。また従来の外国商館を通さず、製茶会社を設立し直輸出を行う茶業者が増えていった。
明治初期の政府の茶業基本政策によって、日本緑茶の品質向上を図るとともに多田元吉らによる紅茶、烏龍茶の視察、研究なども行われ、「紅茶製法布達案並製法書」によって中国風紅茶、インド風紅茶の伝習も各地で行われた。
この紅茶生産化推進のおかげで生産、輸出も増えていったが、昭和30年の生産量8,525トンをピークに他の茶種同様輸出は衰退していった。
近世末期までは、茶は山間部などで生産されていたが、当時の士族授産事業などを契機に平坦畑作地に集団茶園の形成がみられるようになった。
しかし、茶の輸出価格の下落や成園化までの投資負担が大きいことなどの理由で、茶園開拓をした士族たちは離散していき、代わりに農民が茶園の後を引き継ぐようになっていった。
この集団産地の形成は、単に茶園の形成だけにとどまらず、流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明等茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えた。